サッカーにおいて「形を押し付ける」ことは何よりも近道であるということ
こんばんは、Mori Hiroyukiです。
今日は寒い中、ジュニア年代の指導をしてきました。笑
TMでしたが、なかなか上手くいかず・・・
改めて、「伝える」ことと「習慣化する」ことの難しさを痛感しました。
つい1週間目には出来ていた事が出来なかったり。
自分は守備を大切にするタイプなので、攻撃は抽象的に伝えます。
「相手を観なさい」としか伝えません。
相手を見ることができれば、そこには「駆け引き」が発生し、「判断」が必要とされます。攻撃は‘‘自由‘‘なので、極論では何をしようが構わない、と。ただボールを持ったらチャレンジはミスを伴うので、失敗したら取り返すことを大切にします。
指導者によってサッカーのスタート地点は異なります。
攻撃を重視するタイプの指導者は、ボールを持ったら始まりという方がいるかと思いまます。
自分は、
ボールを奪うことが、サッカーの始まりである
ことを軸に考えています。
いくら挑戦して失敗してもいい、ただ失敗は取り返そうと。
なかなか‘‘気付き‘‘ができないと難しいと今日1日で痛感しました。
前置きがだいぶ長くなってしまいました。
今日は、「形を押し付ける」指導について。
最近では、指導が変化しつつある中で根性主義の指導はあまり見かけなくなりました。
しかし、指導をみていると展開が「形式化」されているチームがたまに見られます。
そこで持ったらこうしろ、その動きはこうするべきだ、と。
その理由にたどり着いた過程や判断材料が語られず、プレーの結果に対して言及することに何の指導があるのかといつも疑問に思っています。
そういったチームは、身体能力に優れた選手がいるチームによく見られます。
「答え」を探させるのか、「理由」を探させるのか。
大事にする軸がどこかによって指導の在り方は変化します。
きっと「答え」を提示して指導をすると大抵上手くいきます。
なぜなら「答え」に理由は必要不可欠ではないから。
正しいというプレーの再現が技術的にできればすぐに習得することが出来ます。
ですが、逆は必ずしも上手くいきません。
なぜなら、「理由」を考えなえれば「答え」にたどり着けないから。
数学や思考では「帰納的」あるいは「演繹的」という風に表現されますが、順番に解いていくか、答えを知って式を立てていくか、つまりはそういったプロセスの違いになります。
違う表現をすれば、
中身を大事にするか、外見を大事にするか
というのが適切かもしれません。
結局、自分が何を伝えたいのかというと
- 理由を知らなければ、そのプレーに主体的な応用は利かない
- 「理由」を考えさせるヒントの出し方が大切である
- プレーの形骸化は、選手を平凡にさせる
- 選手が失敗から学べるために‘‘気付ける‘‘指導をしよう
ということである。
なかなか自分も上手く行っていない事が分かり、
指導力不足を痛感しています。
ですが、理想とは絶えず変化するものであり成し遂げるには時間がかかります。
よりよい日本サッカー界に未来の為に。
今を必死で頑張ろうと思います。
Mori Hiroyuki